子供の頃の続きの続き
母が出て行ってからどれぐらいの日が経ったのかわからないですけど、夏休みになって、親戚の方からお母さんに会いたくないか?と話があったと思う。
僕と姉と2人、母の住む所へ連れて行ってもらった。
久しぶりに会う母がいつものオムライスを作ってくれたのを覚えてます。
数時間後、親戚の方が帰る時に、僕達にどうするか聞いてきた。 僕は残ると言い、姉は帰ったと思います。 その辺の記憶は定かではないですけど、僕は1週間ほどいた気がします。
夜になるとあの男も来たような…
場所は多分、姫路市だったと思います。
母は近所の喫茶店で働いていて、その時間は僕も喫茶店の近くで遊んでた。
常連さんの子供さんが遊んでくれてた。
あっという間に時間は過ぎて、家に帰って、父はお母さん元気にしてたか?とだけ聞いてきたような…
母がいなくなって寂しさも辛かったけど、何より辛かったのが、学校行事など必ず来てくれてた人が僕には居なくなったこと。運動会で一緒に食べる手作り弁当が、どこかで買ってきたお弁当だったこと。
先生と一緒に食べてた事で家族と食べてるみんなが羨ましかったですね
1度、おばあちゃんが来てくれたような微かな記憶はありますけど
小学3年生になる少し前、春休みかな
大阪に住む父の弟さんの家に姉と3人で遊びに行きました。
叔父さんの息子さんが外に遊びに連れて行ってくれて、ちょっと遠くの小学校のグランドで遊んでくれて楽しかった。 どれぐらい遊んだか覚えてませんが、叔父さんの家に帰ると、父が居ませんでした。
僕と姉は叔父さんの家にあずけられる事になったようです。 突然知らない土地にあずけられる事になって大泣きして外に飛び出して叔父さんに抱きしめられた。 急な転向で不安だし、友達いないし…
翌日だったかな、転校先の学校へ叔母さんと挨拶に行って、担任になる先生と会った。
春休みが終わり、知らない子達と新しい学校へ行った。 その学校は僕のいた学校より生徒が少なくて2クラスしかなかった。僕のいた小学校は5クラスあったから、人数の少ないことにちょっと安心した。
なかなか馴染めず、一人でいると、クラスの女の子達がよく話しかけてくれた事が嬉しかった。
舞台子役をやってる女の子もいて、その子が1番最初に話しかけてくれた事も鮮明に覚えてる
男の子達は遠目に僕を見てた気がする。
学校ではなかなか馴染めなかったけど
近所の子達とは野球ですぐに馴染めた。
その時間は楽しかったんだけど、叔父さんの家に帰ると、子供さん達は姉と同級生とそれより上のお兄さんとお姉さんの3兄妹だったから、僕の相手はしてくれず、姉はその輪に入って、なにか楽しそうにしてたけど、僕はお風呂で九九を覚えさられるのが苦痛だったのと、誰も相手にしてくれないのが寂しくて、布団に潜って泣いてましたね
朝食はレーズンパンで、パンが嫌いだった僕には、それにプラスでレーズンが入ってるなんて地獄でしたね。でも、残すと怒られるし、通学の時間は迫ってくるしで辛かった。
そのレーズンパンと、九九はその後もずっと地獄でした。
学校生活は音楽の時間に2人ペアで歌を披露することになって、僕と仲良くしてくれてた男の子とペアで歌ったカエルの歌がめちゃくちゃ良かったらしく、先生からべた褒めされて、他の先生からも褒められて、それが自信になって学校生活が楽しくなってきました。野球もそこそこできたので、みんなから認められてたような気がします。
1つ強烈に記憶に残ってるのは僕の事を好きだって噂の女の子が、僕が野球してるのを近くで見に来たんですよ。 その子を意識してしまって、3打席3三振したのを覚えてます(笑)
叔父さんの家での生活は夏休みに入る前になっても慣れてなくて、毎晩泣いてる僕をどう思ったのかわかりませんが、夏休みになったら、父の家に帰れる事になりました。 終業式になり、僕が転校するという話を先生がみんなにした時に僕を好きだと噂になってた女の子が泣いてたのを覚えてます。
学校を出る時に、みんなにお別れするのが寂しかったのか、早く帰りたかったのかわからないけど、ダッシュで帰った。 その帰り道に舞台子役やってた女の子に呼び止められて、道に咲いてた花をもらった。
辛かった1学期間が終わりました。
今、思えば僕と姉をあずかってくれた叔父さん家族も大変だったでしょうね